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 愛憐(1991)

 フルート  ファゴット  オーケストラの為の

 

 風が吹き、ラッパの音が広い平野に甘く、切なく鳴り渡る。その背後で寒気がするような深淵が大きく口を開けていて。その深淵とラッパを吹く知恵遅れの少女が、静かにかつ激しくよりそって、風が吹き、ラッパの音が広い平野に甘く切なく・・・・。いつか見た映画の一場面だ。
 

 

 例えば、僕らが「愛」だとか「夢」だとかいう言葉を口にするとき、耐え難いほどの気恥ずかしさを覚えない訳にはいかない。今どき夢見る女子中学生でさえも口にしない(鍵付の日記帳に書きつけ、机の奥にしまいこむぐらいのことはするかもしれないが)言葉。すっかり使い古され、現実の何ものをもしめすことが出来なくなってしまった言葉。
 

 

 もし僕が仮に今、「愛」というものを描かなければならないとすれば、その対極のもう一つの愛とでもいえる「悲惨」や「憎悪」を、「夢」を描くなら、どこまでも苛酷な「現う」を同時にあわせ描くだろう。その時「愛」や「夢」は、テレビドラマやハーレクインロマンスや道徳の教科書などのカタログから脱け出し、僕らを徹底的に打ちのめし、喜ばせ、慰めてくれるだろう。下手すると僕ら自身の手に負えないような、それそのものの姿で僕らに迫ってくるだろう。そのようにして、すくい上げたいと思う、さまざまな言葉がある。

 

 作曲をすると、激しく消耗する。この耳に聴こえる音、この目に見えるものの全てが、僕のココロとかいう代物を、弱い脳味噌を極限以上に押し広げ、僕はぐちゃぐちゃになってしまった。その右も左も向けないような状態で、松露を集めるように音符を拾い集める。初めての恋文を書くように、熱にうなされ、あせりながら、同時に臆病なほど慎重に、五線紙に音を刻みこんでいった。僕や、貴方が、かつて踏みつけ、どこかの街に置き去りにした、或いは僕や貴方自身かもしれない、今も、どこかの街でラッパを吹き続けているだろうジェルソミーナたちにこの曲が届くことを心から願って。

「研鑽楽団コンサート」 プログラムノートより(1992年5月5日 福岡市南市民センター大ホール)

soloist

Fl:津村瑞

Fg:埜口浩之

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