ヴァイオリン協奏曲(2006)

 

 風が吹き、草が揺れ、陽炎のように音が立ち昇る。その立ち昇った音が光に溶け、黄金の粉となってたゆとう。この音から今回の仕事は始まった。
 

 

 熊本に八景水谷という美しい名前の土地がある。そこは名前の通り、滾々と清水が湧き立ち、谷間に青々とした草原が広がる。草原の中の一本の草のように私は、そこに座りじっと凝視する。音を捉えようと。
 

 

 八月の光は燦々と降り注ぎ、その光が作り出す影は余りに暗い。風が吹き、立ち昇った音が風に攫われ霧散する。そのどこまでも脆い音を捉える事からこの仕事は始まった。私は、やっとのことで手に入れた幾つかの音を固く握り締め、それらの音を鍛え上げる為に山に入る。

 

 思い切りはったりを噛ますと、「私は、ギリシャの偉大な悲劇作家アイスキュロスの強い影響のもと、この作品を書いた。」とでもなるのだろうか。実際は、ひたすらギリシャ悲劇を読み耽り、心も臓腑も捩じ切れる程感動しながら、その合間にこの曲のメモを取ったという位のものなのだが。
 

 

 コロス(合唱隊)が嘆き、悲しみ、或は笑い、喜び、舞う。そこにソロ(俳優)が、すっと立ち上がるように現われる。この悲劇という形式に見るコントラスト。ここに私は、文学的な意味を超えた、協奏曲にも通じる一つの定型を見る。悲劇を背負い、単独者としての孤独を生き抜いて行くソロ。私が今回書きたかったのはこれだ。安易にオーケストラと凭れあう事無く独自に自らの運命を体験して行くソロ。そうだ、ギリシャ悲劇は人間と人間(或は限りなく人間に近い神)との関係の捩れをとことんまで体験させてくれる。

 

 山中を歩く。風が吹き山が鳴る。通奏低音のような山鳴りの上に、パイプオルガンのような無数の蝉の声が鳴り響く。私は歩く、単独者のように。突然吹き抜ける強い風が耳に篭り、その直後一瞬の静寂が訪れる。その静寂に染み込むように蝉の声が広がり、打ち込まれた楔のように甲高い鳥の声が響く。草を踏みしめる自分の足音に、自らの吐息が絡む。私は、生れ落ちたばかりの雛鳥のような、さっき拵えたばかりの旋律を、その雛鳥を空に向かって放すようにおずおずと口遊んでみる。山鳴り、風、生き物の声、そして私自身の足音、鼓動、幾つもの音が重なり、絡み合いやがて重層的な流れを、複雑な律動を形作る。木立の間から差し込んでくる夕方の光も、今ここでは柔らかく漂うような音となる。こんな日を幾つも繰り返し、この曲は完成した。

 

 骨の髄まですっかり熊本人でありながら、一年の殆どが冬という、寒風吹きすさぶ、海も凍るような(と私は妄想する)北ドイツ最果ての地にあるオーケストラで、時折べそをかきながら(と私は妄想する)コンサートマスターとして活躍している緒方愛子さんの為にこの曲を書いた。熊本の強い光も、濃い影も、風も、水も、緑も全て、この曲に詰め込んだつもりだ。この曲を、このまま丸ごと全て(原稿料以外)緒方愛子さんに差し上げたいと思っている。

               2006. 4. 20  太田哲也
 

福岡市アクロスシンフォニーホールにて 

2006年5月福岡クラシックス第3回定期演奏会プログラムノートより

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